|
|
オランダで復活を期す日本の伝統武芸「逆手道」 プロローグ 昭和40年秋、日本中が待ちに待った東京オリンピックが開催され、世界各国から色とりどりの華や かなユニフォームを着た選手団が日本の東京を目指して集まってきた。 ロシアを相手にした女子バレーボール日棒貝塚チームの必死の戦い、エチオピアから来た裸足のマラ ソン走者アベベの疲れを見せない力走、アントン・ヘーシンクの柔道優勝など、彼らが目の前で繰り広 げる迫力ある競技の数々に圧倒され、そのような世界的なイベントが開けるまでになった日本を目の当 たりに見て、戦後からの復興はこれで完了してこれから新しい日本の発展が始まるという想いで誰もが 胸を熱くした。 そのころの日本では白黒テレビの普及率がほぼ全家庭に行き渡り、テレビはあらゆる階層の日本人共 通の娯楽となっていた。 当時の人気プログラムの筆頭には、ひょっこりひょうたん島、事件記者、そして姿三四郎に代表され る柔道ドラマがあり、当時15歳の夢多き少年であった私は、次から次へと襲ってくる悪役の柔術家た ちを得意の山嵐で投げ飛ばす正義の武道家、講道館柔道の姿三四郎にあこがれていた。 その翌年に幸い講道館の近く文京区同心町にある都立高校へ入学できたので、放課後には靴を下駄に 履き替え、帽子を取って柔道着を肩に担ぎ、テレビで見る柔道家気取りで都電通りをわざわざ徒歩で講 道館まで通ったものだった。 当時の柔道ドラマの筋はどれも同じで、ひたすら私的な争いを避ける柔道家達を、武術試合で負けた 柔術家達が腹いせに徒党を組んで襲い、私闘を禁じられた柔道家が彼らから受ける制裁を我慢してじっ と耐え、そして最後には武術大会で正々堂々と戦って勝つ。それに感激した柔術家たちが心を入れ替え て講道館に続々と入門してくる、そんな今から見れば実に他愛無いものであった。 主人公の姿三四郎を執拗に襲う唐手の桧垣源之助は、悪役柔術家の筆頭として当時の私の意識に深く 刻み込まれていた。 柔術との出会い それから15年が経ち既に社会人となった私は、将来をヨーロッパで活躍することを心に決め、ヨー ロッパで暮らす際に現地の人と交流する手段として何か日本の伝統文化を身につけたい、それもできれ ば日本の伝統的な武術がいいと考えていた。 高校時代に習った柔道は、もともと足腰が人一倍弱かった私には不向きで、同じころに始めた従兄弟 達が次々に黒帯を取るなか、私だけはいつまで経っても白帯のままだった。 大学に入ってからクラ ブに入り糸東流空手を習い始めたが、これは正にぴったりで1年で黒帯寸前まで行った。しかしうっか りして腰を痛めてしまってからは蹴りも使えなくなり、後は腰を気遣いながらの稽古なので、結局は目 前にした黒帯を締めるまではいかなかった。 そんなハンデを背負っていたので、いまさら空手を再開もできず悩んでいたところ、本当に偶然、近 くのパン屋さんが柔術の先生であることを知った。早速に頼み込んで弟子にしてもらい、以降週に2度 のペースで稽古をつけてもらった。 その先生が会得した柔術は逆手道と称し、兼相流柔術から派生した現代柔術であった。 本家の兼相流柔術は、江戸時代に全盛を極めた関節技を特徴とする浅山一伝流柔術などから明治時代 に派生した流派で、手首の間接を逆に決めるいわゆる逆手術に特徴があり、大東流柔術およびそこから 派生した合気道とは非常に良く似た技が多い。両者の大きな違いは、大東流(合気道)が関節技をきめて から相手を投げるのに対して、逆手道ではそのまま固めて相手を動けなくすることにある。 関節技であるから腰にも負担がかからず、蹴りや突きも適度にあって空手を断念せざるを得なかった 私には、蹴りと突きのない合気道よりははるかに楽しく取り組めた。手も足も細く骨細で非力な私だが、 幼いときから毎晩帰宅した父親の肩を揉んでいて握力だけは誰にも負けなかったので、これほど似合っ た武道は他には無かった。 柔術はノウハウの塊だ。ほんの僅か指を抑える場所や力の方向がずれるだけで威力が激減して技が効 かなくなってしまう。逆に一度ノウハウさえ飲み込んでしまえば、力が弱くとも大男ですら押さえ込め る。 柔術を習い始めて約10年が経ち、念願の欧州行きがようやく実現することになった時、逆手道をその地 で教える用意は既に十分出来上がっていた。 オランダ(欧州)の柔術事情 柔術の発祥地日本ではその技を見ることすら稀な位に伝承者の少ない武術となってしまった柔術だが、 オランダはもちろん欧州では柔道と並んで非常に人気のある武術となっている。人口5万人位の小さな田 舎町でも柔道の道場が一つはあり、そこには必ずといってよいくらいに柔術クラスが併設され、多くの生 徒さんたちが通っている。 これはアントン・ヘーシンク以来オランダでは柔道が圧倒的な人気を得ていて、その柔道を教える人た ちが講道館に伝わる講道館護身術と称する禁じ業を柔術として教え始めたことに拠る。もともと講道館柔 道は起倒流や良移心当流などの投げ技主体の柔術を学んだ嘉納治五郎が、安全に競技ができる近代スポー ツとして従来の技を編成しなおしたもので、その際に競技としては使えない危険な関節技を禁じ技として 外した。それがそもそも講道館護身術と称されて高段者のみに伝授された技だ。だからそれらの技を柔術 として教えること自体は悪くはないのだが、もともとリストから外された技を復活させたものだから柔術 本来の切れを無くしていて、私のような本来の柔術家からみれば絞り粕のような技ばかりとなっている。 そんな程度でも結構高い人気を博していて、オランダだけでも柔術連盟は数千人の会員を擁している。 イギリス、ドイツ、フランスでも状況は似たようなもので、ほとんどの連盟や団体が本来の日本の柔術 家からの指導を受けず、自分たちなりの"欧州柔術"を編み出して現地の人たちに指導しているのが現状だ。 しかし日本にすら柔術家はまれなのだから、ましてわざわざ外国にまで教えに来る柔術家がほとんどい ないのは当たり前で、その状況で自分たちなりに工夫して柔術を今に伝えている欧州の人たちの熱意には 頭が下がる。そしてこれらの欧州柔術は日本の柔術の延長線上にあるから、まだ柔術として認知できるも のだ。 一方最近人気が高くなった寝技主体のブラジリアン柔術と言えば、これは明治時代にブラジルへ移民し た日系人が伝えた柔道をもとにブラジル人が寝技主体の格闘技として発展させたもので、本来の柔術から は遥かに隔絶してしまいもはや柔術とは呼べないまったく別の武道となってしまった。 またマイナーな存在ではあるが、日本の柔術家から直伝された本当の柔術を教えている団体もオランダ には幾つかある。彼らはオランダ柔術連盟には属さず(連盟のほうでも"異端"扱いで彼らの技を"認知"し ていない)、昔ながらの日本式のシステムで教えている。 彼らの悩みは、本家日本の柔術と交流がないままではいずれオランダ柔術連盟と同じように技も次第に 薄まってしまい、切れの無い形だけの技ばかりとなってしまうのではないかと危惧している点だ。 そのような団体の道場へ出かけて、私の兼相流直伝の技を披露したときの彼らの驚きと喜びようといっ たらない。目を輝かせて喜び、その場で弟子入り希望者が続出する。彼らには本当の技が見分けられるの だ。 反対に、柔術連盟の道場では技の切れに皆一様に驚きはするものの、すぐに距離を置いて遠ざかろうと する。 「あの技はわれわれの柔術とは関係ない、ただ参考にはなる」といった反応だ。 合気道のように本当の真髄を学べる上部団体を持たないが故に、"自分たちこそ本家"と思い込んでいる 節があり、彼らの見識の狭さが残念でならない。 オランダで逆手道の復活をはかる 旧水戸士族、武石謙太郎兼相が明治時代中期に、主として浅山一伝流の関節技を元に手首の関節に対象を 集中する新しい技の体系を編み出して兼相流柔術を打ち立てた。其の兼相流柔術から更に手首間接に特化し た技の体系を工夫して、故田中忠秀堂先生が戦後に起こした逆手道は、1993年に創始者である田中忠秀堂 宗師が癌で没して以降その後を引き継ぐものが現れず、終に日本では流派が途絶えた。逆手道の技を正規に 伝えるのは今ではこの私ただ一人となってしまった。 私はこのオランダの地にやってきて17年間、ずっと逆手道を教えてきた。弟子たちはそれぞれ自分たちの 流派に逆手道の技を取り入れて本当の柔術を目指して精進しており、それはそれで意義があるのだが、私は このユニークな技の体系を持つ逆手道がこのまま名前も残せずに埋もれてしまうのがいかにも残念でならな い。 今の私の願いは逆手道の後継者をこのオランダの地で育て、ここで逆手道を復活させ、願わくば更にそれ を欧州で発展させることだ。 その目的達成のため、これから教える人は私の意を汲んで逆手道を受け継ごうとする意志のある人に絞る 事にした。従来は習いたい人には誰でも教えていたが、もう私も50台の後半に入り、現役で活躍できる時間 が限られてきた。残り時間はもはや潤沢にはないから、それを後継者育成のために効果的に使わなければな らない。 幸い、一昨年の12月からロッテルダムにある日本文化センタ、松風館の道場を借りて一ヶ月に1回(毎月 第二土曜日の午後二時から)逆手道のセミナを定期的に開けることになった。 もともと私は柔術を教えるのは純然たるボランテア活動として、私自身への謝礼は一切取らない。免状は 既に11人の黒帯を認可したが、これらの段位認定も勿論無料だ。この私の心意気に応えて逆手道を伝えてく れる人をこの地で一人でも多く育てたい、それが今の私の切実な願いだ。 プロローグ オランダで過ごしたこの17年間、延べで7つの道場で技を教え、教えたオランダ人の総数は300人以上数 えられる。多くの友人や知己を得たが、中でも一番の友人はインド系オランダ人で、車の運転教習で生業を 得ながら体術の道場を運営しているクリシュナ・ゴパル氏だ。誠実な人柄でもう14年来の付合いとなる。 2000年に英文で「古流柔術」という柔術入門本を出したが、そこでのパートナを勤めてもらった。ついで ながら本はアムステルフェーンのOCS 書店に置かせてもらっているので、興味のある人は、私にとっては4 冊目の出版である文春新書「物語オランダ人」ともども是非ご一読いただきたい。 私は長年の念願であった欧州行きを実現するため、今から17年前それまで勤めていた日本ビクターを辞め てオランダへ移って来た。それからと言うもの環境が一転して、白は白、黒は黒としか言えない不器用な生 き方をしてきた私は、本業で報われることが無くなってしまった。しかしこちらで続けてきた柔術普及活動 のお陰で多くの友人さらには生甲斐を得ることが出来た。 柔術があったらばこそ、私は自分がいきいきと活躍できる場を確保でき、どのような境遇に在っても前向 きに自分の人生を歩んでいける心の余裕と自信とを得ることが出来た。 私に人生の生甲斐を与えてくれた逆手道であるが、先に述べたように日本では流派がすでに途絶えてしま った。その逆手道をオランダの地で復活させ後世に伝えることで、逆手道田中忠秀堂宗師、そして幾多の先 輩方に恩返しをしたいと願っている。 2005年3月1日 オランダにて 欧州(兼相流柔術)逆手道代表 師範六段位 倉部 誠
|